
自分は何のために生まれてきたのか?人は何のために生きているのか?そんな疑問を持ったことってないでしょうか?
人生で1番大事な問いかけのはずなのに、意外とあまりこういうことを考えず、日々の忙しさに流されているのではないのでしょうか。もしくは、そんなこと考えても「分からない」多くの方がそう思われているかもしれません。
しかし、この問いかけに対する自分なりの答えは、持つべきものだと私は思います。なぜなら、理由が分からなければ、人生で大きな挫折をした時に、生きる意味をなくしてしまい、人はとても弱くなってしまいます。
最悪の場合、自ら命を絶つということも起こりうるのです。だからこそ、「生きる意味を考える」そして、自分なりの答えを出すという作業は人生においてとても大切な作業なのです。
以下に書く内容は、これが正しいと押し付けるものではありません。あくまで、現時点での自分の答えであり、これを読んでいただいた皆さんが、それぞれの「生きるという意味」を考えていただければと思います。何かの考えるきっかけになっていただければ、ありがたいと思います。
<何のために人は生まれてきたのか>
人生で起こる多くの経験の中で、人は、「こんなつらいことばかり起こるのなら、いっそ死んでしまいたい」そんな風に考えてしまうことも時にはあると思います。
でも、本当は私は逆だと思うんですね。苦しいことや、つらいことが起こるからこそ、私達はそこに「生きている意味」があると思うのです。
「何のために人は生まれてきたのか?」「何のために生きるのか?」
それは、「気づく」ということではないかと思います。その中には、うれしかった経験や、誰かからの優しさや、思いやりを受け取ったとき、時には、悔しい思い、後悔の念、大切な人の死、家族への思い、多くの経験があったことと思います。
しかし、その経験を通して、その中から何か「気づいたこと」がきっとあると思います。それが、どんなにつらい経験であってもです。
なぜなら、そこに、「成長」があるからです。そこに、人の生きる1つの意味があるのではないかと思います。成長という表現をしましたが、何が成長すると思いますか?それは、自分の「魂」が、です。
いきなり「魂」と聞いて、何をいっているんだと思う人もいると思います。そのような言葉に否定的な人もいらっしゃると思います。
けれどもこれが、現時点で自分がいきついている答えです。人から愛情を貰った時なぜ感動するのか?素晴らしい音楽を聴いて、なぜ人は心が震えるのか?お盆や正月になぜお墓に参るのか?私達は無意識の中で、魂の存在を認知しています。これは万国共通のことだと思います。
といっても、いきなり、こんな話なかなか信じられないですよね (笑)
信じる、信じないかというよりも、「自分自身の心に腑に落ちるかどうか」を大切にしてもらえばいいと思っています^^
順を追って説明していきますね。
「成長するため」とさきほど申しましたが、どういう時に、成長すると思いますか?それは、「感動」した時です。生きる中でのさまざまな経験の中から、人は多くの感動に出会います。
それは、人から愛情を受け取ったときであったり、自分が人に愛情を与えたとき、誰かのために行動できたとき、また、苦しみや、困難を経験し、そこから学んだ時、これらすべてが「感動」です。その感動とは何につながっているのか?一言で申し上げれば、「愛」というものを学ぶという所につながっています。
「愛」というと漠然としていて分かりづらいですよね^^;
なんか怪しいイメージもありますしね^^;
「愛」とは何なのか?
これは、「人を思いやる心」のことだと理解しています。
これは、自分のことも思いやれること、自分自身を愛することも含まれますし、困っている人がいたら助けることであるとか、無償の愛、見返りを求めない、他人に与える愛のことだと感じています。
与える愛を行うには、「自分自身を自分自身が愛せていること」が大前提だと感じています。自分を愛することと同じように、自分以外のものや人も愛せるようになること。それが、「愛」なのかなと。
昔から誰もがそれが大事なことは知っているはずです。分かっていながら、我欲に負けてなかなか実行できないのも人間です。だからこそこの世は修行の場なのですね。「人を思いやる心」。人にとって1番大切なことでもあり、今の私達にも求められていることといえるでしょう。
魂をレベルアップさせるには、自分を愛する自己愛と、この純粋に人を思いやる心(利他愛)の2つがとても重要になってくるでしょう。
利他愛というのは自己を犠牲にして行うものではありません。
自分が満たされていると、人は自然と人に与えたくなるのです。まずは、自分を愛することから始めると良いでしょう。
このことを知っているか、知っていないかってめちゃくちゃ大きいと思います
これに気づいていないと、ロールプレイングゲームに例えるなら、レベルの上げるために、ダンジョンにわざわざ入ったのに、どうやったらレベルが上がるのか知らないでプレイしているようなものなのです。
私達は、魂を向上(レベルアップ)するために生まれてきているということ。そして、愛情をつないでいくこと。そこに私達が生きる意味があるのではないかと。そんな風にとらえることができるのではないでしょうか。
人生に投げやりになった時、孤独を感じた時、そんな時は、これまで自分が周りの人から受け取ってきた「思いやり」を思い出してみてください。ほんの小さなことにも、その瞬間の誰かからの愛情が、そこにきっとあるはずですから。そこに気づけたなら、自分の命がどれだけ尊いものなのか分かると思います。
誰かから自分が受け取った愛情は、また、周りの人へ返していく。そうやって愛情というのは、永遠と受け継がれていくものだと思います。
さらに、もう少し深く掘り下げていくと私達は「誰かに喜ばれる存在になるため」に生きているともいえると思います。
自分の存在というのは、自分の関わりによって、周りの誰かに喜んでもらうこと。そこにも大きな意味があると感じています。「人から喜ばれるとうれしい」という気持ち。ここにも大きな意味があると感じています。
最後に、「人生を楽しむ」ということ。そう、私たちは、苦しむために生まれてきたのではないということ。楽しむために生まれてきたということ。これもまた、私達が生まれてきた意味なのです。人は苦しい、つらい体験の中から、気づき、学ぶこともできますが、苦しみからだけでなく、喜びや、楽しみ、感動の中から「愛」を学ぶことができるのです。
だから、自分を犠牲にして生きる必要もないのです。
自分の幸せもしっかり考えてくださいね^^
自分の幸せをちゃんと考えることは、
エゴでも、自分勝手でもありません。エゴとは、自分のこと「のみ」を考えているということ。
自分も、人も幸せになれる。そういう風にこの世はできているのだと思います。
今に気づき、今に生きること。
自分が心から最も愛する事を、この瞬間に行うこと。
それが生きるということ。
本当にかけがえのない命だと思います。
だからこそ、自分が受け取った命を大切にして、自分のいのちをいっぱい輝かせてくださいね。
自己愛も愛です。自己愛を認めないのに「最悪の場合、自ら命を絶つということも起こりうるのです」こんなことを書くのは矛盾していると思います。
自己愛が無いのに存在し続けるなんて拷問です
苦しいことや、つらいことが起こるからこそ、私達はそこに「生きている意味」があると思うのです。
↑
これが本当なら、私達は地球を戦争や飢餓で溢れかえっている世界にするべきです。なぜなら、そこには苦しいことや、つらいことが溢れかえっているからです。
私は、楽しむことや幸せになることが全てだと思います。
幸い、人間は他のものを幸せにすることで自分も幸せを感じることができる生き物なので
苦しみは、生きる意味ではなく、楽しむために利用する経験という道具であると私は思っています。
愛で地球をひとつにする
素晴らく魅力的です。
なので、絶望の中で生きている方も希望をもてる、気持ちよく読める文章を書いて欲しかったのでいろいろ否定や訂正をしました。
新しい時代に切り捨てはありません。
邪悪な悪魔のしあわせも願います
これは真理ではなく私の意見です。
間違いも含まれた文章かもしれません
aaaaさん、コメントありがとうございます^^
>絶望の中で生きている方も希望をもてる、気持ちよく読める文章を書いて欲しかったのでいろいろ否定や訂正をしました。
この言葉、大変ありがたいです^^ 私自身、まだまだ未熟なので、ご指導ご指摘よろしくお願いしますね^^
そうですね。
まず最初にお伝えしたいのは、この記事2年ほど前に書いた記事なのですね。それから修正を加えていませんでしたので、現在は当時より知識も多少増えましたので、自分でもこの記事の内容は反省しています^^そして、私自身、自己愛は認めておりますのでその点はご了承ください。私自身、自己愛も利他愛もどちらも大切なものだと思っております。私自身の考えとしては、どちらかに偏よりすぎても駄目でこの2つは、やはりバランスが大事だと思っています。自分をまず愛すること。そして自分のことを愛することができるように、他人も愛せるようになること。この2つが揃ってこその「愛」だと思っています。
このブログでは、利他愛を実践することを強調していますが、それは、なぜかというと、人は一般的にみて、自己愛の方に偏りがちになり易いと思うからです。なぜならば、自己愛よりも利他愛のほうが実践するのが難しいからです。
お恥ずかしい話ですが、実は私自身のことを振り返ってみると、これまで自分のことばかりしか考えれていなかったなと感じるのです。だからこそ、もっと他人のことを、心から思えるようになること。それを自分自身これから大事にしたいと思っています。このブログで利他愛を強調するのは、私自身のこれからの課題でもあるからです^^
このページを読まれ、苦しむことが生きる意味ととらえられてしまっているのなら、これは、すみません。こちらの伝え方が悪かったです。
ここで言いたかったのは、「苦しみ」や「つらいこと」というのは、ちゃんとそこに「気づく」「学ぶ」べきものがあるのだよと言うことをいいたかったのです。そして、ここでいう学びというのは、最終的には愛につながっているものと私は思っています。
そして、魂が成長することは、苦しみから気づく以外にも、感動や楽しむこと、人の幸せを分かち合うことからも魂は成長すると私自身も考えています。
>苦しみは、生きる意味ではなく、楽しむために利用する経験という道具であると私は思っています。
aaaaさん、私も本当にその通りだと思っています^^ ものごとを「苦しみ」と、とらえるのではなく、「乗り越えるための自分自身への挑戦状」とすること。そうやって人生を楽しんでいくことこそ大切でないかと思います。人生を楽しむこと、幸せになること。愛や思いやりをつないでいくこと。これが本来の生き方なのだと思っています^^
悲劇や苦しいだけが人生の意味だとは私は思っていません。
今に気づき、今に生きること。
自分が心から最も愛する事を、この瞬間に行うこと。
それが大切なことだと感じています^^
それを踏まえた上で、1つ付け加えるなら、例えば、つらいことがあった時、内観することもせず、「なんで自分はこんなつらい目にあうんだ、こんな人生もう嫌だ」と自ら命を絶ってしまう人も少なからずいると思うのです。
そのつらいと思う経験から反省すること、気づくこと、学ぶことがあるということは、やはり人にとって大事なことだと考えております。「苦しみは、楽しむために利用する経験という道具である。」本当の意味でこれを理解するには、やはり内観することがはまず大切なことではないかと感じています。苦しみからのメッセージに気づくことができたなら、きっと今よりも救われる命というのも多いのではと感じています。
だからこそ、自分自身が、反省したり、気づいたり、改善しようと努力したり、そういった成長は人にとって必要だと感じています。こういった苦しみから学んだことというのも人生の楽しみの1つになっていくのでしょうね^^
今回のこのページの内容が、絶望している方に対して、切り捨てのように感じられる文章になっていたのでしたら、本当に申し訳ありません。
このブログも、もっと改善していけたらと思います^^今回ご指摘いただいた点は、また修正させてもらいます!
貴重なご意見本当にありがとうございます^^